夜更け過ぎ、目が覚めた。
悶え苦しむ、断末魔。それを決して外に出さぬように、堪え忍ぶ…息の音。
いっそ、その息の根を止めた方が、ラクになれるんじゃないかと思ってしまうほど、
内にひた隠そうと藻掻く声なき絶唱に、こちらの息まで詰まりそうになる。
(夢…?)
合宿所の扉側に顔を向けて横寝の俺と、その扉の間には、息も絶え絶えな…黒尾さん。
一時間半程前まで、いつものように自主練後残業し、這う這うの体で布団に潜り込み、
死んだように眠りについた…はず。俺に布団を掛けてくれた姿だけ、朧げに記憶がある。
きっと黒尾さんもその直後、倒れるように枕へ突っ伏し、寝落ちしたんだろう。
頭からすっぽり布団を被り、両手でその布団を更に強く、耳へ押し当てて。
サブのクッションだか枕の代わりに、そうやって頭を挟み込んでいるようだけど、
そのガードがあってもなお、隠し切れない苦しみが、俺の布団も微かに震わせる。
いや、震えがダイレクトに伝わってくるのは、むしろ俺の胸の中へ、だ。
疲れを取るためには、しっかり寝させてあげたい。でも、このまま放置は本末転倒では?
黒尾さんの苦しみを癒すことなんて、俺には到底できないけれども、せめて…
(せめて、悪夢から逃げる、手助けを…っ)
爪が食い込むほど、布団を掴み続ける手。
その冷え切った手の上にそっと、自分の手を重ね、静かに摩り、ふんわりと包み込む。
その感覚に気付いた黒尾さんの手から、ごく僅かに力が抜け、指先が虚空を彷徨う。
(大丈夫。独りじゃ…ありません。)
指に指を絡め俺の布団に引き込むと、違和感をはっきり覚えた大きな手が、戸惑い開く。
今度はその手のひらに、もう片方の手のひらを合わせて、両手でしっかり握り込む。
(大丈夫。ここに…居ますから。)
幼い頃、悪夢で目を覚まし、恐怖に震える俺に、母がしてくれたのを思い出しながら、
重ねた手に頬を付け、ゆっくり呼気を吹き当て、冷たく固く強張った手を、温め解す。
少し、ほんの少しずつ、力が抜けてくるけれども、まだ悪夢の中で意識は蠢いている。
大丈夫、大丈夫…と、直接唇を当てて囁き続けると、俺の手を握り返しはじめてきた。
それでもまだまだ、黒尾さんが苦しみの幻から救われるには、程遠い。
(夢の中ですら、俺は、お役に…っ)
このままだと、俺まで虚無の悪夢に引き摺り込まれてしまいそうだ。
すみません、と心の中で頭を下げてから、腕にしがみつくように布団から引き上げ、
まだ開け切らない寝ぼけ眼にコソコソ耳打ちしながら、黒尾さんを引っ張り出した。
「怖い夢、見ちゃったんで…
お手洗、付き合って頂けませんか?」
*****
しがみつく?逆に、支える?それとも、寄り添い合う?
どうとでも取れる体勢で、赤葦はフラつく黒尾に腕を絡め、巧みにトイレへ誘導した。
ぼんやりしたままの黒尾を洗面台の前に立たせ、まずは自らが冷水で顔を洗うと、
黒尾の脇腹をツンと押し、同じように顔を洗わせ、首にかけていた金魚柄の手拭いを渡した。
「吸水性は、乏しいですけど…」
「いや、無いより、随分マシ…」
未だ夢うつつな黒尾が顔を拭き終わる前に、赤葦は再び黒尾の手を握ると、
大浴場脇の非常口から外へ出て、コンクリート流しの脇の芝生に、黒尾を座らせた。
「相変わらず、お星様が綺麗ですね。」
ここは先日、大浴場で語り合っ(ているうちにのぼせ)た後、二人で涼を取った場所だ。
手のひらが触れるか触れないかの距離を開けて、赤葦は黒尾の隣に腰掛けると、
ぐぐぐーーーっと思いっきり伸びをして、ゴロリ。芝生に寝転び、大きく深呼吸。
その呼吸に誘われるように、黒尾もゴロリ。赤葦に合わせて、深呼吸を繰り返す。
「あぁ。冷たい空気も、凄ぇ美味い。」
ようやく眠気やら何やらが、消えたらしい。澄んだ声を発し、仄かに口元も緩めた。
そして、小さく息を吐くと、星空を見上げたまま黒尾は静かに語りかけた。
「なぁ。ホントはお前じゃなくて、俺が…」
「先日観た映画で、こう言ってたんです…」
赤葦は黒尾の言葉を遮ったが、その口調はいつもよりはるかに穏やかだった。
珍しいが、この場に合う雰囲気に、黒尾は若干驚いて口を閉じ、黙って先を促した。
「怖い夢を見た時は、掛け算の7の段を、後ろから言うと良いそうですよ。」
しちく、ろくじゅうさん。しちは、ごじゅうろく。しちしち、しじゅうく…
九九の中では難易度も高め、かつ、音が良いから、でしょうか。
負担にならない程度で、冷静さも適度に取り戻せる、絶妙な呪文?かもしれませんね。
「ちなみに、12の段でやってみると…」
「12×9=120-12=108…煩悩の数だな。」
数学が好きだと計算方法に凝り始め、歴史や民俗学が好きだと、雑学に走り出す。
落ち着いたら寝直そうと思っていたのに、目も頭も冴え切ってしまうんですよね。
この『7の段を逆から』法を、そのまま準用するのも悪くはありませんけど、
どうせなら、自分専用の技を編み出して、より高い効果を得られれば、尚良しかと。
『逆から』言うのは、悪くない案ですので、これを採用するとして…何を言うべきか。
「自分の名前は、いかがでしょう?」
「難易度、ちょいと低すぎねぇか?」
「ならば、俺の名前を使う?」
「それも、すぐ慣れるだろ。」
「でしたら、二人の名を…交互に。」
「面白そうだな!やってみようぜ!」
えーっと、まず、二人の名前は…
あかあしけいじ、くろおてつろう。
それぞれ、逆から読むと…
じいけしあかあ、うろつておろく。
さらにそれを1字ずつ、交互に…
じういろけつして、あおかろあく。
「慈雨、色結して…」
「青火炉、明く…?」
恵みの雨が、色と色を結んで。
青き香炉が明き、薫りを放つ…
「ぐっ、偶然に、しては…っ!!」
「いやいや、できすぎだろ…っ!」
あまりにも美しい奇跡の光景に、二人は上半身を起こし、思わずハイタッチ。
そしてすぐに、ブッ!!と同時に吹き出し、起こした背を芝生に戻し、腹を抱えた。
「にっ、似合わねーーーっ!!」
「いっ、色気ありすぎですっ!」
黒と赤が交じると、青が生まれるなんて。
よし、この『青い呪文』を、就寝前の悪夢予防及び、悪夢払い用として、即採用決定!
あ、待てよ。採用したはいいが、なかなかアレな副作用が出る可能性もあるな。
「毎晩、俺の夢ん中に…
赤葦が出てくるようになっちまうかも?」
それでもいいか?と、黒尾は艶っぽく片目を瞑り、視線を流してきた。
赤葦はもう一度ププっと吹いてから、一転…同じく潤んだ視線を、投げ返した。
「何を、今更…ですね。
俺は毎晩、風呂場で…夢見てますけど?」
風呂場で考え事をし過ぎて悶々、ドツボに嵌ってしまうのが悩みだった、赤葦。
先日、対処法を先人たる黒尾に教わり、毎日それを忠実に実行していたのだ。
『10年後、二人で何を食べに行くか?』
脳内の悪循環思考ループを止めるため、できるだけしょーもない妄想に耽るべし。
例えば、もし万が一、10年後も何らかの形で二人が袖すり合っているとしたら?…と。
「黒尾さん御馳走様です♡毎週金曜晩に行きたいお店リスト、日々更新中です。」
「ちょっと待て!俺が奢ってやるっつったのは、シメのラーメン♡だけだろが!」
「俺の夢、壊さないで下さいね?」
「寝言は寝て言え、コノヤロウ!」
真横の脇腹に、手刀のチョップをお見舞い。互いのツボにクリーンヒット…笑いの応酬。
とは言え、大声を上げるわけにもいかず、手のひらで口を覆って悶絶。
ゼェゼェと上がる呼吸を整えようと、夜空を見上げ、再び深呼吸を同調させる。
(10年後の俺達を、もう一度…)
(夢見てみると、するならば…)
慈雨…恵みの雨、即ち美酒を掲げ、黒と赤の盃を結び合う。はい、乾杯~っ!
火炉は確か、囲炉裏や暖炉、こたつ等の『暖を取るもの』という意味もあったはず。
居酒屋で飲んだくれて、シメのラーメン食って。終電後、どっちかの家に転がり込み…
青い布団のかかったこたつにゴロリ、気付いたら夜が明けていた、かな?
「凄ぇリアルな、夢の景色じゃねぇか?」
「夢というより、リアルな現実の光景?」
「ごくフツーの、社畜の金曜晩っぽいな。」
「夢はなくとも、俺達には似合いですね。」
「…悪くねぇ、よな。」
「…ですね、本当に。」
お互いの間に流れる、澄み切った夜空のような、青い空気。
悪夢がすっかり払われたことに満足した赤葦は、黒尾に気付かれないよう微笑むと、
そろろそ戻りましょうかと、静かに立ち上がった。
その手を、まだ座ったままの黒尾が掴み、赤葦を見上げて頬を緩めた。
「さんきゅー、赤葦。
手拭い、今度洗って返すから。」
赤葦に借りた手拭いを、首元でひらひら。黒と赤の金魚が、青い水紋を揺らす。
このまま俺が持って帰りますよ、と赤葦は言いかけたが、手をひらひら振り返した。
「それは、差し上げ…
もしくは、長期のレンタルで。」
黒と赤の『青い呪文』を、忘れないように。毎晩、枕元に忍ばせておいて下さい。
もし万が一、俺達に『10年後』があった時には、それを返して…とは、言いませんよ?
黒尾さんの汗と涙と涎が沁みついて、ボロボロになってるでしょうから、
途中で似たようなものを買い替えるなり何なりして、ご自由に見繕って下さいませ。
その代わり『10年後』の俺には、別のモノ…青い何か?をプレゼントして下さい。
当然ながら、10年分の賃貸料及び法定利息並びに、ガッツリ手数料込で。
「飲み&ラーメン代とは、別ですからね?」
「お前に借りを作った俺が馬鹿でしたっ!」
俺が真っ青になるってオチかよ…と、黒尾は満面の笑みで嘆き節。
『10年後』が思いやられるな~と赤葦を小突いてから、スっと立ち上がった。
「お手数、お掛けします…文字通りな。」
今夜と、これから…10年の間。
この手で黒赤金魚を掬いつつ…
お前の手に、救われ続けるよ。
赤葦の手を、ガッツリと握り締めて。
黒尾は繋いだ手を揺らしながら『青の呪文』を口ずさみ、部屋へと歩き始めた。
- 終 -
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※先日の大浴場
2024/05/30