「これまた、凄ぇ…」
「幻想的、ですね…」
部屋に戻ると、座卓や座椅子等はすっかり片付けられ、雰囲気が激変していた。
真ん中に敷かれた二組の布団。板間のテーブルには、冷水を湛えた青い瓶とグラス。
照明は、床の間の奥。砂利敷の隙間から漏れる、仄かな燈色の灯りだけ。
その床の間には、青い香炉が置かれ、安らかな薫りで部屋を包んでいた。
「青火炉、明く…!」
「あお…え、何て?」
声を弾ませる黒尾に、赤葦がキョトン。
黒尾は吹っ切れたように嬉しそうに声を上げて、布団に思いっきりダイブ。
一度枕に顔を埋めてから起き上がり、香炉を指差しながら朗々と唱えた。
「慈雨色結して、青火炉明く!」
覚えてねぇか?
合宿中、悪夢から俺を救ってくれたお前が教えてくれた…呪文だよ。
怖い夢を見た時には、掛算の7の段を後ろから唱えると良いってやつを、俺専用に改編。
『あかあしけいじ』と『くろおてつろう』の名を、後ろから交互に言うと…
「あの時の、青の呪文ですか!」
じういろけつして、あおかろあく。
恵みの雨が、色と色を結んで。
青き香炉が明き、薫りを放つ…
あまりにも美しい光景が奇跡的に生まれ、その場で爆笑と共に却下。
慈雨こと美酒を飲み、青い布団の掛かったこたつで寝落ち…という情景に修正していた。
だが、まさかの『美しい光景』の方が、時を経て現実のものとなっていたのだ。
「信じ、られ、ません…っ」
「あぁ…まさに、奇跡だ。」
偶然生まれた光景が、目の前にあるなんて。まさか、『青の呪文』を覚えているなんて。
シメのラーメンは実現しなかったのに、一番あり得ないと思った景色が、叶うだなんて。
香炉を見つめ、呆然と立ち竦む赤葦。その手を引き寄せ、布団の上に座らせると、
黒尾は鞄の中から小さな紙袋を取り出し、二人の間に置いた。
「約束…果たすよ。」
赤葦が風呂技を毎晩実践してるように、俺は悪夢予防の『青い呪文』を毎夜唱えてる。
でも、お前から借りた、黒と赤の金魚が泳ぐ手拭いを枕に忍ばせてんのは、半分だけ。
切った残りは大事に保管…社会人になった時に、それを利用させてもらったんだ。
「革製名刺入の、内布として。」
海外出張でも、絶対に持ってくもんだし、安眠御守としてこれ以上のものはないだろ?
だけど今日は、それをあえて持って来なかった。必要ないって、わかってたからな。
楽しいばっかりの赤葦との二人旅で、悪夢なんて見るはずがないし、
もし仮に見たとしても、すぐ傍に、お前が居るんだ。あの時みたいに、絶対…
「この手が、俺を…救ってくれる。」
赤葦の両手を掬い上げて重ね、頬を寄せて。
驚きに強張る指を温め解すように、静かに呼気を当てる。
「十年ちょい、本当に…ありがとな。」
赤葦の肩から力が抜けるのを待って、右手のてのひらを上へ向け、
そこに、紙袋から取り出した青い包みを、黒尾は静かに乗せた。
「4分の1だけ…返すよ。」
半分に切った手拭いを、もう半分に。同じ名刺入れを、二つお揃いで作ってたんだ。
いつか『十年後』が来たら、お前にちゃんと、これを返そうって。でも、これじゃあ…
「俺との『約束』は…」
「果たしては…ない。」
手拭いをそのまま返さなくていい。その代わり、『青い何か?』をプレゼントしろ。
青い呪文を唱えながら、一体何を返せばいいのか、十年近く毎夜延々考え続けたよ。
十年を超えて…仕事で袖すり合うようになって、数年が経った頃からは、
これをいつどこで、どうやって贈ればいいのか?を、考え続けてたんだけどな。
青火炉明く、は実現した。
残りはあと、この一つだ。
赤葦の左手をしっかり包み、頬をすり寄せ、唇をそっと薬指に当てて。
今度はその左手を上に向け、紙袋から出した別の『青い小箱』を乗せた。
「賃貸料及び法定利息並びに、手数料込。」
…に、足りるかどうか、わかんねぇけど。きっちり十年後の給料3ヶ月分を、贈るよ。
これから先の十年後も、三十年後も、傍に居られる人生を、必然の未来とするために。
黒と赤の、色を結して。
味噌汁を、毎日一緒に。
「俺と、結婚して下さい。」
あの時に見た流れ星のように、赤葦の頬を静かに伝う、温かい…慈雨。
祈りを込めてそれを見つめる黒尾の手を、赤葦はギュッと握り返した。
「はい。心から、喜んで。」
十年後も、三十年後も、更にその先も。
貴方と、ずーっと一緒に、居たいです。
森然の星空よりも澄み切り、今日見た満天の星々より輝く、赤葦の笑顔。
零れ落ちる慈雨を、一滴ずつ丁寧に唇で拾い集めながら、二人の色を深く結した。
- 結 -
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2024/09/20