「煮えません…ね。」 「まだまだ…だな。」 今週は外で飲みませんか?と、週の半ばに珍しく赤葦が提案してきた。 バレー協会と宇内先生が頻繁にコラボするようになってから、ほぼ毎週末に打合せ兼飲み会。 宇内家リビングで真面目に仕事をした後、そのままそこで宅飲みコースだが、 打ち合わせネタのない時でも、なんやかんや『直帰』の口実を作り、集合… 毎週金曜夜は宇内家宅飲み(そのまま終電突破&お泊まり)が、三人の定番になっていた。 だが今週は、宇内先生のやんごとなき事情(ド修羅場)により、宅飲みはやむなく中止。 急にぽっかり空いた時間をどうするか、黒尾が考え始めるよりも先に、 中止を伝えてきた直後、赤葦から二人だけで飲まないかとの誘いを受け、即時快諾。 大衆居酒屋ではなく、接待で使う小料理屋(全個室)を、その場で予約した。 「こんないい所…わざわざすみません。」 「今日は静かに飲みてぇ気分…だよな?」 「黒尾さん、実は結構…モテますよね?」 「仕事相手…オッサンにはモテモテだ。」 パチリと片目を閉じながら、黒尾は慣れた手つきで焼酎の水割りを作った。 宅飲み時は、赤葦が飲み物、黒尾が食べ物、宇内先生がおつまみを準備するが、 体育会系財団法人の団体職員(若手)ともなれば、お酒のマナーは必須科目。 濃すぎず薄すぎず、薫りを愉しめる絶妙な塩梅で、赤葦好みのグラスを完成させた。 「御見事。飲み過ぎそうです。」 「お褒めに与り、光栄の至り。」 お通しは、イカの煮物。それから、アボカドのわさび醤油和え冷奴。 濃厚な味わいが、すっきりした芋焼酎に良く合い、思わず頬が緩んでしまう。 黙って舌鼓を打ちながら、あっという間にお通しと一杯目を愉しみ、ホッと一息。 さて。そろそろ、口も緩めないと。 赤葦が大きく二息目を吸い、腹の中から吐き出す前に、本日のメイン…鶏の水炊き鍋が到着した。 「水からじっくり煮るのが、博多風。」 「お出汁がきいて、美味しそうです。」 さすがに『しっかりとしたお出汁』は、あらかじめとってあるだろう。 しかし、ここは食べ放題のチェーン店ではなく、隠れ家風の上品な小料理屋個室。 賓客をもてなし『じっくりとしたお話し』を愉しむための、静かな場… 歓談の邪魔をしないよう、卓上コンロの火は極力弱めに設定されていた。 ことこと?くつくつ? お鍋の煮える音は、まだ全然聞こえてこない。 下茹でしてある鶏肉以外、お野菜はフレッシュそのもの、まだ生のままだ。 「こりゃぁ、時間がかかりそうだな。」 「ですね。蓋、閉めときましょうか。」 じっと眺めていても、小さな泡どころか、お出汁が揺らめきすらしない。 赤葦が土鍋の蓋を手に取ろうとすると、黒尾は菜箸を取って赤葦を一旦止め、 エノキの束を白菜の下へ、花切りされたシイタケを豆腐の影に隠してから、蓋を被せた。 どちらも、赤葦が苦手なキノコ類。こういうちょっとした気配りは、さすがの…敏腕営業さん。 「やっぱり黒尾さん…かなりモテるでしょう?」 「だとしたら、毎週末…宅飲みしてねぇだろ。」 「鍋が煮えるまで、場と花を持たせて下さい。」 「それができたら、今頃ホストで大モテだな。」 蓋を半分開け、中をチラリ。 あったかい湯気は、まだ漏れ出て来なかった。 「もう煮えたか?まだ煮えないのか…?」 「『見つめる鍋は煮えない』…ですね。」 焼き枝豆を肴に、二杯目の焼酎を傾ける。 何だかんだいいつつ、この場にドンピシャな話題を振ってきた黒尾に、赤葦はコクリと頷いた。 何もせず、ただじーっと鍋を見つめていても、なかなか鍋は煮えない。 また、早く煮えないかな?と、何度も蓋を取って確認していると、余計に鍋は煮えにくい。 ただ待っている時間は長く感じられる。あまり注意し過ぎていても、かえって結果は良くない。 しばらくは放って置く時間が必要…そういった状況を表す、西洋のことわざだ。 「俺達の状況が、今まさにコレ…だな。」 「俺達だけとは、限りませんけど…ね。」 おしぼりの中に微かな二息目を零し、口元を少し緩めてから拭うと、赤葦は鍋から視線を外した。 「宇内さんが、グズグズに煮詰まっちゃって…」 *** 俺が凄いから、漫画が売れてるんじゃない。 赤葦さん達にお膳立てしてもらってるだけ。 黒尾さん達の強力なバックアップもあるし、 妖怪世代達の人気に、乗っかってるだけだ。 「俺は、あの頃と…変わってない。」 ほんのちょっと、はやく高く飛べただけ。 背も低いし、センスがあるわけでもない。 みんなが必死に繋いで、繋いで、繋いで。 はい、どうぞ!と、セットしてもらって。 俺は、目の前に来たボールを、打つだけ… 「俺が…だなんて、烏滸がましくて言えない。」 *** 「何とまぁ、謙虚というか…耳が痛ぇよな。」 「えぇ。どこかで聞いたような…耳鳴りが。」 赤葦は黒尾の視線と耳鳴り?から逃れるように、鍋の蓋を開けて中を覗き込み…チラリ。 コレがいけないとわかってはいるんですが、と苦笑いしてから、枝豆を頬張った。 「目の前に来たボールを、打つだけ…それをやりきれることが、既に凄ぇんだけどな。」 「勿論、仰る通りですが…宇内先生の思い込み?にも、一理以上のものがあるんです。」 *** 赤葦さんや黒尾さん達の、公式な御膳立てがない『ただの俺』には… 俺個人が創っただけの作品には、飛び抜けた魅力も付加価値もない。 その証拠に、俺が趣味で開設してる個人サイトには、ほとんど誰も来ないじゃん? 何作か創作系サイトに投稿してみたけど、『大衆ウケ』には程遠い状態。 読んで頂けるだけマシ。反応して下さる奇特かつ親切な方々を、画面越しに拝み倒してるよ。 *** 「おい。一応プロだろ?それなのに…?」 「漫画はね。趣味の創作は…小説です。」 ウチとの著作権がらみの契約上、『宇内天満』として『漫画』を公開することは不可能です。 もちろん、気軽にSNSを利用することもお控え頂いてますので、全世界に向けて大公表も無理。 昔懐かし個人サイト(検索避け必須)で、慎ましく趣味を愉しむしか、現状では方法がないんですよ。 「SNSは、簡単に評価を貰える反面、貰えねぇ時の精神的ダメージは…想像以上だな。」 「だから、SNSは極力使わない…でも、貰えた時の喜びを、既に知ってしまっている。」 それに現在、かつての個人サイト隆盛期よりはるかに便利なツールが、無料で初期装備されてます。 アナリティクスやエンゲージメントといった、解析機能…これがまた、クセモノなんです。 ありとあらゆるデータを得られる解析は、商売をするには必須のツールかもしれませんが、 趣味の個人サイトでは、無用の長物どころか、『見つめる鍋』のデメリットが、より甚大です。 「どれくらいの人が、見てくれたかな?どの作品が人気かな?…気になってしょうがねぇよな。」 「まるでお鍋の蓋を取るように、気が付くと解析ページを開けて…その度に、熱が逃げていく。」 *** ほらね、やっぱり。 『ただの俺』なんて、誰にも必要とされてない。 数字とグラフが、全部証明しちゃってるじゃん。 一次創作は見てもらいにくい?そうかもね。 でも俺が書いたのは、一応まだ連載中漫画の、二次創作小説なんだよ。 他の誰にも、できるだけご迷惑をかけないよう…『宇内天満先生』のね。 世間的にはモブ扱いだけど、作者としては愛着あるキャラの、漫画には描き切れなかった部分を、 自分なりにしっかり考えて、文字通り親のキモチで書いたものなんだけど…価値は、ないみたい。 *** 「当然ながら、『見つめる鍋』にならないよう、できる限り解析タグは、外したんですが。」 「それでも、有料のサーバを使えば、全てを外すことはできねぇ。便利すぎる故の弊害か。」 いいねやブックマーク等の『数』で、承認欲求を簡単に満たせる、SNSや投稿系サイト。 だが、簡単お手軽だからこそ、同じぐらいアッサリと『見つめる鍋』の罠に陥り、 まるで自分自身が無価値の存在だと、徐々に錯覚していくようになる… 「投稿サイトでは、作品のキャプションに『感想必須』とあったり、作品に関する語りがあると…」 「『かまってちゃん』扱いされることがある…自分で創ったことのない人には、そう見えるんだ。」 「でも、一度でも自分で何かしらを創ったことがあれば、その人の気持ちがよ~くわかります。」 「酷評や無反応の恐怖と戦いながら、よくぞ創り上げて公開した!って、褒め称えたくなるぜ。」 ことことことっ、くつくつくつっ。 内側に籠った熱を、外に居る誰かに伝えるかのように、閉じられた鍋の蓋が小さく揺れる。 蓋の穴から、少しずつ湯気が漏れてくるのを、黒尾と赤葦はしばらく黙って見つめ、 二人同時に眉間に皺を寄せ、視線を落として声を振り絞った。 「宇内先生の話…俺達にはキツいですよね。」 「あぁ…先生とは全く別の意味で、キツい。」 どんなに良いモノを創っても、公開する場所や方法が悪ければ、ほとんど見向きもされない。 工業製品も、伝統工芸も、農作物も、著作物も、それは同じ… いかに消費者と『繋ぐ』かという、プロモーションに拠るウェイトが、実はかなり大きいのだ。 「良いモノを創れば、黙ってても売れる…そんな甘い時代は、とっくに過ぎ去りました。」 「ちゃんと場を整えて、繋ぐ努力までしねぇと…どんどん『流れて』いくだけなんだよ。」 担当編集者と、普及事業部。 どちらも表舞台に立つ作り(創り)手…『プレイヤー』ではないが、 本当に輝くもの達を、真に価値のある存在として、人々に伝え繋ぐ…『コネクター』だ。 そんなコネクターたる自分達の働き次第で、輝きが失われてしまうかもしれないのだ。 「怖ぇ…な。鍋の蓋以上に、震えちまうよ。」 「えぇ…本当に、怖くて堪らない重さです。」 視線が交わる先で、大きく揺れる重い鍋の蓋。 淵からはもう、熱く滾った出汁が泡となり、噴き零れそうになっていた。 もうそろそろ、見つめ続けるだけじゃ… 鍋の蓋を取らないと。 ごくわずかに奥歯を噛み締め、赤葦は自分のおしぼりを蓋の上に乗せ、開けようとした。 だが再度、黒尾は赤葦の手を止めると、自分のものもその上に重ねて、静かに蓋を開けた。 「うわっ…ちぃ!湯気っ!」 「大丈夫、ですか…っ!?」 二人の間に立ち昇る、熱い熱い湯気。 赤葦は眼鏡を白く曇らせながらも、氷だけが残ったグラスを黒尾に即座に手渡した。 「ナイスアシスト!!…さんきゅーな、赤葦。」 「いえ、こちらこそ…ありがとうございます。」 今度は黒尾が、ハンカチを赤葦に差し出して。 赤葦は眼鏡を外すと、鍋の蓋付近に視線を彷徨わせながら、微かに頬を緩めて眼鏡を拭いた。 その穏やかな表情を、何故か見ていられなくて… 黒尾は湯気に咽たフリをしつつ、菜箸を手に取って煮え滾る鍋を掻き回した。 「あー、あっ、赤葦もさ、この鍋みてぇに…噴き零れる前に、蓋を開けて籠る熱を逃がせよ? 鍋が割れて、取り返しがつかなくならねぇよう…俺でよければ、蓋を取ってやるから。」 「おや、それは…こちらのセリフですよ。蓋で抑えつけて、鍋を限界まで滾らせてますよね? 俺が気付いてないと思ったら、大間違いです。似た者同士ですから…バレバレですよ。」 俺を『見つめる』だけじゃなくて 適切なタイミングで蓋を取って下さるのなら 俺は黒尾さんが望むまで、ずっと… たとえ鍋が割れても、蓋を綴じてあげますよ 「見て見ぬふりをしながら…見つめ続けます。」 そういう人が、身近に居てくれると…その人の前でなら、あなたも安心して蓋を外せるでしょう? 赤葦は自嘲するように呟くと、黒尾の器にエノキとシイタケを全部乗せ、微笑みながら手渡した。 「お前、実は…モテねぇだろ。鶏肉も入れろ。」 黒尾は朗らかに笑いながら、赤葦の器に結び昆布と春菊だけを乗せて、自信満々に差し出した。 「さすがモテモテ黒尾さん。俺の大好物です。」 「だろ~?もっと褒めてくれてもいいんだぜ?」 美味しく煮立った鍋を見つめながら、二人で黙々と食事を続ける。 会話はなくなったが、ほんわり香るお出汁の湯気みたいな、心地良い温もりが場を満たしていく。 自然と全身が緩み、頬が綻んで… ふと脳内に浮かんだことを、二人はほぼ同時にふわりと零していた。 「お前の大好物が俺…みたいにも聞こえるな?」 「割れ鍋に綴じ蓋…どういう意味でしたっけ?」 - ②へ - *********** No.008 見つめる 2023/10/04 ETC小咄