見たくないものは、目を閉じればいい。 聞きたくないものは、耳を塞げばいい。 でも、嗅ぎたくないものから逃れるのは、かなり難しい。 (これは、本気で、マズい…っ) 梟谷グループ合同練習の帰路、いつものように同じ車両に乗り込んだ、猫と梟。 賑やかに楽しむメイン集団とは離れ、車両隅っこの連結部付近にひっそり固まった、いつもの4人。 一番奥に俺、その隣に黒尾さん。俺の後ろに鷲尾さんと海さん。黙って背中を合わせ、各々読書。 誰も何もしゃべらないけれど、その落ち着いた静寂こそが、凄く居心地良い空気感を醸している。 ごとん、ごとん。 電車のほどよい揺れが、疲れて強張った身体を、少し和らげてくれるような? 揺蕩うような、微睡むような。そんな不思議な心地良さに包まれて、数駅過ぎたあたりだった。 そこそこ大きな駅で、他線から乗り換えてくる人がたくさんいて、扉付近はかなりぎゅう詰め状態。 車両一番奥にいた俺達は、半歩ずつ近づく程度で、さほど窮屈さは増さなかった。だけど… (この、匂い…っ) 乗り込んできた誰かさんから香る、甘い甘い匂い。 最近、時々この香りとすれ違うから、もしかすると巷では流行っているのかもしれない。 でも、俺はこの手の濃厚な甘さが、やや苦手。ほんのり香る程度ならまだしも、強すぎる時は… (ちょっと、気持ち、悪い…っ) まるで車両全てが、お化粧したみたい。マスク越しでも逃れられない、強烈な香料感。 甘過ぎて、鼻どころか喉まで痛くなってくるレベルの激甘さ。そもそも俺、甘いものは不得手だ。 さっきまで心地よかった電車の揺れが、今は逆に喉を不快に刺激する。 いつもならできるだけ我慢するし、我慢できなければ別の車両に移動するが、 溜まりに溜まった疲労で、我慢の閾値も通常よりはるかに低く、混雑で逃亡することもできない。 すぐに喉の痛みが限界を迎え、酸素を求めて生理的に咽てくる。 (咳は…ダメ。) 一時期よりはだいぶマシになったとはいえ、電車内で咳コンコンと咽たりなんかしたら、 まるで犯罪者を見るような冷たい視線が、周りから突き刺さってくる。 別に風邪を引いているわけでもないし、流行り病を患ってもいない、至って健康優良な体育会系。 たとえ不可抗力のむせ返りだったとしても、周りの人にはそれはわからないし、迷惑には変わりない。 できるだけ、咳は我慢。極力、我慢。唾を飲み込んで、せり上がってくるものを嚥下して… (く、る、しい…っ) 空調の風が、甘い匂いをどんどん運んでくる。 息苦しさと気持ち悪さで、吐きそうになってきたのを、マスクの中で必死に堪える。 咳とえずきを抑える代わりに、目尻と視界は熱くじわりと滲み始めた、その時。 後頭部をぐいと引かれ、真っ赤なジャージの中…黒いTシャツに、顔ごとすっぽり埋まっていた。 「あー、その本。絶対に号泣しちまうから、家で読めっつったのに。」 (っ…???) 広い胸にぎゅっと抱き込まれ、ぽんぽん。 背中をゆるゆる撫でてくれる、大きな手。 「涙が止まるまで、顔…隠してていいぞ~」 ーーーこの中なら、咳しても大丈夫だ。 耳元にそっと囁かれた、優しい労りの言葉。 俺の異変を察した黒尾さんが、咄嗟に俺を胸の中に隠し、激甘臭を遮断。 そして、嗚咽混じりの咳をしても良いように、適当な口実を周囲に吹聴してくれたようだ。 「何だ。お前も我慢できず読んでしまったか。」 「俺も昨日、公園で…わかるぞ、その気持ち。」 真後ろから、鷲尾さんと海さんの、柔らかい声。 状況を瞬時に把握したお二人は、半歩下がって背を寄せ、周りから俺達を隠してくれたのだろう。 ーーー我慢しなくて、もう…大丈夫だ。 ーーー泣き止むまで、胸…借りておけ。 背中越しに放たれる、お二人の穏やかな空気に、周りの人達もホッコリした雰囲気に変わった。 本に感涙する純情男子高校生と、それを見守る先輩達…そんな『ほほえましい光景』に見えたのかも。 (すごい、助かり、ます…っ) 抱き込む手で、ずっと背を撫で続けながら。もう片方の手で、俺が持っていた本を引き抜いて。 空いたその手に、黒尾さんは手を重ねて包み、そっと握ってくれた。 (あったかい…落ち着く…っ) おそらく練習後に使っただろう、汗拭きボディシート?の、爽やかな柑橘系の香り。 そこに仄かに混じる、黒尾さんの…陽だまりの毛玉みたいな、ふわっとした柔らかいにおい。 それを胸いっぱいに吸込んでいると、いつしか苦しいえずきも治まり、自然と呼吸も安定してきた。 (八朔?それとも、秋刀魚に添える…すだち?) 黒尾さんらしい香りのセレクトに、喰いしばっていた頬も、心なしかほころんできた。 実に俺好みの、美味しそうな…あ、ちょっとお腹が空いてきたかも。 無意識の内に、大きな胸に鼻を擦りつけて、大きく大きく深呼吸していると、 背中なでなでが急にピタリと止まり、つんつん…微かに震える手がシャツの端を引いた。 ーーー俺の方が、ヤな臭い…じゃ、ないよな? 的外れな心配声が、耳元にぽそぽそ。 全然そんなことないですと伝えるように、自分からも黒尾さんにしがみ付き、繋いだ手に力を込める。 俺の仕種に心底安堵したような、ホっとした溜息。その温かい呼気が首元に当たり、熱がじわじわ。 (なんか…くすぐったくて、それから…っ) 喉の痛みも、咳も、すっかり止まったはずなのに。 さっきまでとは全く別の熱が胸を満たし、溢れそうなほどにせり上がってきた。 (………っっっ) じんわり潤む目と、嗚咽を堪えるために。 大好きなにおいと温もりに身を預け、瞳を閉じた。 「あーっ、えーっと、涙が止まったら… 一緒に、晩飯食って、帰らねぇ…か?」 「ほっけの塩焼に、レモン。もしくは… 塩鯖にゆずも、捨てがたいです…ね?」 - 終 - *********** 2024/02/20