猫梟合宿~黒尾&赤葦&海&鷲尾②~

見たくないものは、目を閉じればいい。
聞きたくないものは、耳を塞げばいい。
でも、嗅ぎたくないものから逃れるのは、かなり難しい。

   (これは、本気で、マズい…っ)


梟谷グループ合同練習の帰路、いつものように同じ車両に乗り込んだ、猫と梟。
賑やかに楽しむメイン集団とは離れ、車両隅っこの連結部付近にひっそり固まった、いつもの4人。
一番奥に俺、その隣に黒尾さん。俺の後ろに鷲尾さんと海さん。黙って背中を合わせ、各々読書。
誰も何もしゃべらないけれど、その落ち着いた静寂こそが、凄く居心地良い空気感を醸している。

ごとん、ごとん。
電車のほどよい揺れが、疲れて強張った身体を、少し和らげてくれるような?
揺蕩うような、微睡むような。そんな不思議な心地良さに包まれて、数駅過ぎたあたりだった。
そこそこ大きな駅で、他線から乗り換えてくる人がたくさんいて、扉付近はかなりぎゅう詰め状態。
車両一番奥にいた俺達は、半歩ずつ近づく程度で、さほど窮屈さは増さなかった。だけど…

   (この、匂い…っ)

乗り込んできた誰かさんから香る、甘い甘い匂い。
最近、時々この香りとすれ違うから、もしかすると巷では流行っているのかもしれない。
でも、俺はこの手の濃厚な甘さが、やや苦手。ほんのり香る程度ならまだしも、強すぎる時は…

   (ちょっと、気持ち、悪い…っ)

まるで車両全てが、お化粧したみたい。マスク越しでも逃れられない、強烈な香料感。
甘過ぎて、鼻どころか喉まで痛くなってくるレベルの激甘さ。そもそも俺、甘いものは不得手だ。

さっきまで心地よかった電車の揺れが、今は逆に喉を不快に刺激する。
いつもならできるだけ我慢するし、我慢できなければ別の車両に移動するが、
溜まりに溜まった疲労で、我慢の閾値も通常よりはるかに低く、混雑で逃亡することもできない。
すぐに喉の痛みが限界を迎え、酸素を求めて生理的に咽てくる。

   (咳は…ダメ。)

一時期よりはだいぶマシになったとはいえ、電車内で咳コンコンと咽たりなんかしたら、
まるで犯罪者を見るような冷たい視線が、周りから突き刺さってくる。
別に風邪を引いているわけでもないし、流行り病を患ってもいない、至って健康優良な体育会系。
たとえ不可抗力のむせ返りだったとしても、周りの人にはそれはわからないし、迷惑には変わりない。
できるだけ、咳は我慢。極力、我慢。唾を飲み込んで、せり上がってくるものを嚥下して…

   (く、る、しい…っ)

空調の風が、甘い匂いをどんどん運んでくる。
息苦しさと気持ち悪さで、吐きそうになってきたのを、マスクの中で必死に堪える。
咳とえずきを抑える代わりに、目尻と視界は熱くじわりと滲み始めた、その時。
後頭部をぐいと引かれ、真っ赤なジャージの中…黒いTシャツに、顔ごとすっぽり埋まっていた。


「あー、その本。絶対に号泣しちまうから、家で読めっつったのに。」

   (っ…???)

   広い胸にぎゅっと抱き込まれ、ぽんぽん。
   背中をゆるゆる撫でてくれる、大きな手。

「涙が止まるまで、顔…隠してていいぞ~」

   ーーーこの中なら、咳しても大丈夫だ。

耳元にそっと囁かれた、優しい労りの言葉。
俺の異変を察した黒尾さんが、咄嗟に俺を胸の中に隠し、激甘臭を遮断。
そして、嗚咽混じりの咳をしても良いように、適当な口実を周囲に吹聴してくれたようだ。

「何だ。お前も我慢できず読んでしまったか。」
「俺も昨日、公園で…わかるぞ、その気持ち。」

真後ろから、鷲尾さんと海さんの、柔らかい声。
状況を瞬時に把握したお二人は、半歩下がって背を寄せ、周りから俺達を隠してくれたのだろう。

   ーーー我慢しなくて、もう…大丈夫だ。
   ーーー泣き止むまで、胸…借りておけ。

背中越しに放たれる、お二人の穏やかな空気に、周りの人達もホッコリした雰囲気に変わった。
本に感涙する純情男子高校生と、それを見守る先輩達…そんな『ほほえましい光景』に見えたのかも。

   (すごい、助かり、ます…っ)


抱き込む手で、ずっと背を撫で続けながら。もう片方の手で、俺が持っていた本を引き抜いて。
空いたその手に、黒尾さんは手を重ねて包み、そっと握ってくれた。

   (あったかい…落ち着く…っ)

おそらく練習後に使っただろう、汗拭きボディシート?の、爽やかな柑橘系の香り。
そこに仄かに混じる、黒尾さんの…陽だまりの毛玉みたいな、ふわっとした柔らかいにおい。
それを胸いっぱいに吸込んでいると、いつしか苦しいえずきも治まり、自然と呼吸も安定してきた。

   (八朔?それとも、秋刀魚に添える…すだち?)

黒尾さんらしい香りのセレクトに、喰いしばっていた頬も、心なしかほころんできた。
実に俺好みの、美味しそうな…あ、ちょっとお腹が空いてきたかも。
無意識の内に、大きな胸に鼻を擦りつけて、大きく大きく深呼吸していると、
背中なでなでが急にピタリと止まり、つんつん…微かに震える手がシャツの端を引いた。


   ーーー俺の方が、ヤな臭い…じゃ、ないよな?

的外れな心配声が、耳元にぽそぽそ。
全然そんなことないですと伝えるように、自分からも黒尾さんにしがみ付き、繋いだ手に力を込める。
俺の仕種に心底安堵したような、ホっとした溜息。その温かい呼気が首元に当たり、熱がじわじわ。

   (なんか…くすぐったくて、それから…っ)

喉の痛みも、咳も、すっかり止まったはずなのに。
さっきまでとは全く別の熱が胸を満たし、溢れそうなほどにせり上がってきた。

   (………っっっ)

じんわり潤む目と、嗚咽を堪えるために。
大好きなにおいと温もりに身を預け、瞳を閉じた。


「あーっ、えーっと、涙が止まったら…
   一緒に、晩飯食って、帰らねぇ…か?」
「ほっけの塩焼に、レモン。もしくは…
   塩鯖にゆずも、捨てがたいです…ね?」




- 終 -




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2024/02/20